まにあってよかった

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2014.08.27 Wednesday ... - / -
#5センチ


「文学極道ブログ」に一条さんによるポエケットレポートが載っていて、とても面白かったです。
ダーザイン氏とのやりとりが、本当にあそこに書かれている通りだとしたら、一条さん、相当な粋人だなと、よく日常生活に支障がないなと、感心してしまい、たぶん一条さんは常人とは5センチ位違う時空を生きていて、その5センチの隙間を埋めるために、一条さんは「詩」を書いているのだけれど、隙間は一向に縮まる気配がなく、その5センチの空間では、いつまでも いつまでも、鴎が飛び交っているのだろうと思いました。






2009.07.20 Monday ... comments(2) / trackbacks(0)
#「詩織」
 はんなさんの「詩織」というブログで、僕の「プロポーズ。」という詩を採り上げて頂きました。

 はんなさん、ありがとうございました。

 はんなさんは、先日の東京ポエケットで販売された「文学極道」のアンソロジーを読んで、りすの詩を気に留めてくださったとのことです。思わぬところで思わぬ読者に出会う喜び、不思議です。

 「詩織」
http://hannah5.exblog.jp/
 
 
2009.07.18 Saturday ... comments(4) / trackbacks(0)
#遅延証明
山手線、人身事故で運転見合わせ。新宿駅は殺気に満ちており、駅員は吊しあげ状態。都市のカオスは貴重である。僕も未だに会社に着けない。外は良い天気。

2009.04.03 Friday ... comments(0) / trackbacks(0)
#器供             
みなもに鮎が跳ねて 手鏡のように光り それが何かの合図であるかのように ふと背景が居なくなってしまう初夏の岸辺や シティホテルの最上階で 冷えたプールを眺め 陽射しもないのにサングラスが欲しくなる 第4コースの深い揺らめきが 容積にしておよそ1リットルの器の中に身を寄せ おそらく忘れ物でもしたのだろう プールサイドでは少年がランドセルの中身をあらためながら 筆箱の収め場所に悩んでいる プールの底には教室があるのだろうか(水色の黒板の上、立ち泳ぎで方程式を解いたり?)そのような疑いに 私が少し首を傾けるだけで 少年の黄色い学童帽はバランスをなくして みなもに落ちてまずは やわらかく浮くだろう 浮いたらゆっくり水を吸いとり 沈むまでの清潔な待ち時間に 傾けた首をそっと元に戻しておくこともできる とっさに手を伸ばせば繕ってしまう綻びのはじまりに 少年は塩ビ製の筆箱の角を潰して ランドセルの空間の造形に余念がない 乾いた黄色から濡れた黄色へ ゆるやかな布地の変色にも気づかず 学童帽に留まっていた少年の小さな頭の名残も とっさに手を伸ばさなかった という理由で失われていくとすれば 首を傾げる前に忘れ物を手渡すことを 忘れ物はありません そうひとこと云い添えることを あの朝に忘れていたのではないかと 親でもないのに少年のことを気遣っていることが とくに不自然な心持ちでもない冬のはじまりだった 初霜が平等に降りて もの思いに招かれる 半歩手前の暗がりには それとわかるように 藁のような乾草が盛られた あたたかい膨らみがある 今日の暖をとるために その狭い温もりを掻き分け 冬支度に忙しい真面目な地虫たちを掘り出し いちいち名前を尋ねて きちんと整列させるわけにもいかず 踏みしめても身を硬くして生き延びる 強い生命への気安さから 固い靴底で膨らみに踏みこんでしまう私は 器にわずかばかり残ったコーヒーを 電子レンジで温め直す儀式を 家人に疎ましがられても やめることができない 少量を適度に加温することは難しく 目盛のついたスチールのツマミに 秒の単位まで分け入っていく はりきった指先と視線の 愚かさと自愛を量る天秤が チンッという音と同時につりあってしまう瞬間に つとめて無関心でいることで 残り少ないコーヒーを 美味しく頂くことができた 空の器を覗いていると 対岸の町が見えてくる そこはかつての学区外で 知らない人ばかりが暮らしている 石を遠投して様子をうかがうと ときどき届いたという合図が送られてくる 合図があった日には おろしたての新しい器に手をかけて 冷たい縁を円にそってなぞりながら 最初に口をつける場所を 決めることにしている




2007.12.12 Wednesday ... comments(4) / trackbacks(0)
#ハエの近況       


カビくさいアーカイブに身を寄せ合う 薄暗いクラスタの廃坑に 君の使用前の愉快が埋まっている チチオヤはマイニチひとつの単位を取り出して棒で延べる 面積が広がるにつれて端のほうから不愉快になり 反り返る1993あたりを ハハオヤは丁寧に指で押さえている オヤが揃うとハエは喜ぶ オヤの双頭のまわりで 負の数をささやきながらロンドして ハエもタマゴを産みつける前には 愉快になりたいのだろう 棒の上に舞い降りて Hな格好をしている 行く末タニン同士の気安さで 空中権を争うこともなく 互いの上空を自由に飛び交い 固有の深層水を ミセ ビラカシテ ミマセンカ? ハエの提案でチチオヤは 君の不愉快をさらに薄く平らに延ばす セケンシラズにならないように 風にのって遠くまで行けるように ハハオヤは1993が1994にずれ込まないように 押さえる指に力をこめる 押さえても押さえても君の不愉快は広がり ハハオヤは情けなくて悔しくて モー ヤメテクダサイ モー ヤメテクダサイ ハハオヤから涙がはらはらと零れて 感じやすいチチオヤからも涙がはらはらと零れて オヤ固有の塩加減の雨に打たれ Hな格好のママ ハエは1971に流されていく 提案したものが率先して 溺レテミセ ナクテハ ナラナイ。 ハエのアフォリズムに開眼して チチオヤは君の不愉快の中にハエを埋め込み 薄く平らに伸ばしていく ハエは1971から1999へ敷衍され 中身が透けて見えるほど 君の不愉快はペラペラになる ハハオヤはもう何も言わず手を合わせ 君の不愉快がヒラヒラと 大空を飛んでいく光景をイメージしている オヤは最初からヘルメットをかぶっている



2007.11.12 Monday ... comments(0) / trackbacks(0)
#ある詩人の印象
なにかとても大きくて重くて丸みを帯びたもの、そう、たとえば浅間山荘で機動隊が使ったモンケーンのような、よくもまあこんなもの、といった性質の事象によって、不意に、あるいは、いずれは、という前触れがあったのかもしれないが、頭の、おそらく後頭部あたりを強打され、状況からいってもう駄目だ、この場合の「駄目だ」は、まさしく死を意味しており、「死」という言葉の前に「駄目だ」と思った時点で、このときすでに生からは最も遠い場所に運ばれていたはずなのだが、当たり所がよかったのか、相性がよかったのか、意識を無くすこともなく、血を流すこともなく、ただ打たれた、という痛いのか恥ずかしいのかわからない、永遠の未成年のような感情に貫かれながら、いつまでもその場に立ちすくしている、そのような性質の人間が生まれ、ただ、あとから冷静に考えてみれば、それは生まれたのではなく産んだのだと気づくことになるのだが、われわれとしては、人間なのだから人間から生まれたのだと考えるよりほかなく、果たして人間がこれほどの打撃を後頭部に受けて、平然としていられるものなのか、まずは心配してみせるのが礼儀というものなのだが、本人はいたって無傷で、反対に、君たちの心的外傷は大丈夫か、などと心配してみせるので、心配されると何だか不安になってしまうわれわれとしては、これからさき、何かにつけて心のご機嫌を伺いながら暮らしていくことになるのだが、われわれが心に翻弄されて忙しいとき、本人は重たい後遺症に悩み始め、痛みを伴いはしないが、あの一撃によって頭内部の、どこが、何が、壊れなかったのか、それを知りたくて今度こそ、頭を砕いてしまいたいという欲求にさいなまれ、危険な行動に出たこともあったが、そのころには本人にも、周囲から付与された破壊しがたい人格もあり、穏当で合理的な方法をとるしかなく、その方法とは、破壊されたものを内部から少しずつ取り出していけば、結果的に、破壊されなかったものが残るのではないか、というシンプルなものだったが、そのシンプルさにも関わらず、予想外に長い時間がかかり、その作業はいまだに終わる気配を見せないので、われわれとしては、おそらく壊れなかったものなど最初から無かったのであり、あのとき既に全てが壊れていたにちがいないと見ているのだが、全てが壊れていたのなら、あのとき死んでいたはずなのだから、そうするとやはり、産んだのだ、あのとき産んだのだ、とわれわれは今度こそ、本当に不安になるのだ。

2007.10.24 Wednesday ... comments(0) / trackbacks(0)
#夏の構成
淡い音をことさらに聴きわけていくと よわい蝉の途切れがちな鳴き方のなかに何か 
繰り返しくりかえされていく夏の けして戻らない駆動の冷たさを感じる 自動販売機
から落ちる缶ジュースの 安堵にも似た鈍い音が遠くから聞こえ かがんで冷えたジュ
ースを手にしている人の背中に 来年の夏の光が すでに透けて見えるような気がする

なにげない仕草の触りの跡に 人を追っていくことに飽きず 袖を通しそうもない夏服
が 物干しの鎖を揺らす 風の通りがすみやかな庭で 向日葵が太陽を追いかけている

言葉の構成としての夏は いつしか色を使い果たし疲れ ふくらはぎに不意に探りあ
てた赤い湿疹に 指をすべらせて感じる膨らみに気をとられ 触りながら見ている体の
著しい言葉の欠如が 風鈴の舌が休んでいる時に差し込まれ あしたになれば腫れがひ
いて少しの跡が 白い皮膚の上に点として残り 打ち水のような言葉を撒いて涼しい 
夏をまたひとつ 私たちは構成するだろう
2007.08.13 Monday ... comments(4) / trackbacks(0)
#カンガルー事情

人ごみの中でカンガルーを見つけるのは難しいと、かのレイモンド・チャンドラーも書いていましたが、確かに、誰も彼もが袋を持ち歩いている今日、その袋が生来のものであるかどうか、いちいち問い質すようなことも個人情報であるという理由で、なかなか繊細な問題になってきました。先日も前を歩いている人が袋を落としたので、拾って、「落としましたよ」と声をかけると、振り返った妙齢の女性がいかにも心外という感じで、「私のじゃありません」ときっぱり言うので、「でも、いま落としましたよね」と同意を求めると、「そんな証拠がどこにあるんですか?」とあくまでも否定するので、それほど言うのならと諦め、仕方なく交番に届けることにしたのです。交番で「袋を拾ったんですが」と説明すると、警官はほっとしたように「ああ、やっとひとつ見つかったか」と胸をなでおろし、後ろを振り返って言いました。「この袋に心当たりのある方はいますか?」警官の後ろには長椅子があって、たくさんのカンガルーが不安そうに座っていました。
2007.01.24 Wednesday ... comments(2) / trackbacks(0)
#装置

装置について多くを語らないことが私たちの黙約であり スカイブルーのランドセル(学習院型)を背負った少年がまた少し不自由を選択してしまったからといって その過失が立件されるのはまだ遠い先の未来になるのだし 港に停泊する貨物船に日本生まれの鼠が迷い込み アフリカ行きのコンテナに身を寄せてしまうような悲劇が繰り返されるこの街で 妻が相変わらずポスト安部をポトス安部と読み間違えても もう誰も指摘してあげないような喜劇を あと何度くり返せばいいのか
2007.01.18 Thursday ... comments(0) / trackbacks(0)
#馬野幹 『金(キム)』を読む
■現代詩フォーラム第二回批評祭参加作品■馬野幹 『金(キム)』を読む  [2007年1月7日18時04分]

 昭和四年、雑誌『改造』の懸賞論文で第二席になった『様々なる意匠』の中で、小林秀雄は次のように書いている。

 文学の世界に詩人が棲み、小説家が棲んでいる様に、文芸批評家というものが棲んでいる。詩人にとっては詩を創る事が希いであり、小説家にとっては小説を創る事が希いである。では、文芸批評家にとっては文芸批評を書く事が希いであるか? 恐らくこの事実は多くの逆説を孕んでいる。

 文学の世界に、批評というジャンルが確固とした地位を築いていなかった当時、文芸批評家として身を立てようとしていた小林秀雄は、このような素朴な問いかけから、自らの批評活動の第一歩を踏み出した。今でこそ、文芸批評家を名乗る人物はゴロゴロいるし、私たちも、批評という言葉を普通に使っているが、批評に二義的な役割しか与えられていなかった当時の文壇で、それでも批評家として生きていくとはどういうことか、という切実な自問が小林秀雄にはあった。そして、「文芸批評家にとっては文芸批評を書く事が希いであるか?」という小林の、素朴ではあるがラディカルな問いかけは、私たちがしばしば議論する「批評とは何か」という難題として、現在まで生き延びている。
 
 話の方向を変えよう。ところで本当に、「詩人にとっては詩を創る事が希い」であろうか。恐らくこの問いかけも、多くの逆説を孕んでいる。
 現代詩フォーラムに投稿された作品の中でも、屈指の傑作だといっていい馬野幹の『金(キム)』という詩は、この問いかけそのものを読む者に痛烈に突きつけてくる。『金(キム)』は、その内容の下品さにもかかわらず、多くの読者を獲得している不思議な作品である。周知の通り、馬野幹は手馴れた書き手であるから、シモネタのレシピも充分に心得ているわけだが、そのような詩作の技術を超えたところで、読む者を感動させるこの作品の魅力は、一体どこにあるのか。

   ■馬野幹『金(キム)』http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62375

 作品に登場するキムという男は、空想ができない男である。

幹さんやばいっす、オレ犯罪犯しちゃいそうです」
『ちゃんと詳しく説明してミソ』
「ちんこがもうずっと起ってて、おさまらなくてヤバいっす」
『オナニーすれw』
「無理やりするのは、女の子がかわいそうで出来ないっす。。」
 

おかしな事を言う男である。空想であれば女の子に被害はないはずなのに、なぜ「かわいそう」なのか疑問であるし、そもそもこんな考え方をするキムは、生まれてこのかた一度も空想によるオナニーをしたことがないのだろうか。いや、そんなことはあるまい、男であれば、とりあえず、プレイボーイやsabra等(まあ、何でもいいのだが無難なところで)で空想をまじえたオナニーをするのが普通であるし、おそらくキムもオナニー経験者である。では、なぜ今になって、できなくなったのか。これについては、作品の冒頭で「火曜日に詩を教えているキムからskymailがきた」と、さりげなくではあるが、わざわざ、キムが詩を学んでいる男であるという設定を作者が明かしている点に注目しよう。とはいっても、詩を学んでいるのであれば、なおさら空想はお手のものではないか、と一般的には考えられる。が、実はそうでもない。私たちのように、実際に詩を書いている人間には分かるはずだが、空想といっても、それは単なる絵空事ではない。どんな出鱈目を書いたとしても、そこには疑いようもなく自分の刻印が押されていることを私たちは知っている。いかに空想力が豊かな人間であろうと、自分の守備範囲を超える空想はできないし、空想の限界は書き手の認識の限界と必ず一致している。キムが空想でオナニーできないのは、空想自体ができないのではなく、それを絵空事で済ますことができないからだと考えることができる。空想の中に自分を発見してしまうから、空想がリアルに転化してしまうのだ。このようなキムに対して、詩を教えている「幹さん」はこう言い放つ。

『お前はアホかっ!
空想と現実を一緒にすんな!
空想では何してもいいんだよ!
いきなり付き合ってたり、家が隣で幼馴染とか都合のいいシチュエーション想定したり
好きな格好に1秒で着替えさせたり、未成年とやったり、十字架に吊るしたり売買したり
何してもいいんだよ!
空想なんだから!
お前が黙っときゃ誰も分からんから。


 空想の例としては、下品かつ反倫理的、反社会的ではあるが、理屈としては至極まっとうな事を幹さんは言っている。しかし、空想がリアルに転化してしまうキムには、「何してもいいんだよ! 空想なんだから!」という理屈は通用しない。そして、キムの熱を持った下半身は、キムの体を欲望のままに引き摺っていってしまう。

幹さん、
オレ もう いま
妹の部屋のノブに手をかけてす
たすけてくた゛さい


 キムは、必死で倫理的な場所に踏み止まろうとしている。このようなキムの姿は、心理学で分裂病の発生原因ともされる、ダブルバインド(二重拘束)状態に似ているのかもしれない。一方では空想を自ら禁じてオナニーの道を断ち、また一方では妹を犯してはいけないという禁忌の前で実力行使もしない。キムは手枷足枷をはめられて、欲望を満たす手段を見つけることができず、幹さんに助けを求めるしかない。「妹の部屋のノブに手をかけてす」と言うキムに対して幹さんはこう叫ぶ。

だらずかいっ!
それを空想ですっだがな!
逆だがな逆!
何でお前は常に真逆なものを内包しとっだい!
お前は詩か!
詩そのものかっ!


この部分は、この作品の核心になると思うが、キムと詩が、共に「真逆なものを内包」しているとはどういうことか? 確かにキムは、空想の世界で済ますべきことを、逆に、現実の世界で行おうとしてしまっている男だ。詩はどうか。これは明快に語ることは難しいが、ひとまず、こんな解釈をしてみる。詩に書いたことは空想の領域であるかもしれないが、書いてしまったという事実がある、<書いている=生きている>であるような時間があったという事実は、まぎれもなく現実であると。私たちはよく、「書くことが生きることだ」という大袈裟ではあるが、自分ではそれほど誇張とも感じられない気持ちになりつつ、詩を書いている時があるだろう。そのようなとき、「なぜ君は詩を書くのか?」という質問は、「なぜ君は生きているのか?」という質問と全く同じ響きを持って聴こえるはずである。しかし、このような詩の本質論めいたことを幹さんが言い当てていることは、この作品にあって、それほど重要なことではない。たいして目新しい発見でもないからである。では、真に重要なことは何か? それは、「お前は詩か! 詩そのものかっ!」と叫ぶことを契機として、幹さんのキムに対する態度が一変しているという点にある。
 ここで確認しておきたいのは、この詩の構成として、ここまでのキムと幹さんの会話は、携帯電話のメールによって交わされているという点である。これもやはり「火曜日に詩を教えているキムからskymailがきた」という一文によって明らかにされている。二人のこれまでの生々しい会話も、携帯の小さな液晶画面上での出来事だったのだ。しかし、ここから先、幹さんは行動に出ようとする。

俺はオリュンポスを破壊して1つ知ったことがある
靴下のままアパートを飛び出してチャリキにまたがると
親と一緒に住んでいるという足立区のキムの実家を目指した
チャリキの鍵はつけたままだったがペダルはぐんぐんと回転した
鍵は常に心のなかにあるのだ
キムがコトを起こさぬように俺は携帯でしゃべり続けた
『ええかキム!
俺がしゃぶったるけぇ!
そこでそのまま待機すっだーぞ!
間違ってもそのドアのノブを廻すな!
俺は男だけ、どがんしたら気持ちようなるかよう知っとるけぇ!
大丈夫だけ、俺に身を任せたらえーけ!
俺がすっごい気持ちようしたるけぇな!』


 驚くべき態度の変わりようである。それまではウザイ奴だと思っていたキムに対して、「俺がしゃぶったるけぇ!」とまで言い出すのだから、ただ事ではない。明らかに「お前は詩か! 詩そのものかっ!」という「叫び」が引き金になっていることが分かる。そして、この「叫び」がキムに向かって言ったものであると同時に、幹さん自身の「気付き」であったことが分かる。<キム=詩>という認識をしたことによって、何かが起きたのだ。一体、何が起きたのか?

 しかし、実際は、何も起こらなかった。「チャリキの鍵はつけたままだった」のだから、幹さんはどこへも行けるはずはないのだ。最終連で「ここが環七か環八か環百なのかだって分からないんだから」という記述もあるが、実際に自転車を走らせているわけではないから、居場所が分かるはずもなく、「環百」という現実にありもしない名称を出してくるのは、場所なんかどうでもよくて、そもそも足立区のキムの実家を目指しているわけではないことを示している。「靴下のままアパートを飛び出して」と書いておきながら、飛び出した先は空想の世界だったのだ。幹さんは依然としてアパートの部屋の中にいるはずである。ただ、空想のペダルが「ぐんぐんと回転」しているだけなのだ。しかし、この真剣さはどうだろう。空想の中で、キムを救うために、ここまで必死になれるということ、この逆説を生きることが、すなわち詩だと、読むことはできないだろうか。鍵のかかった自転車を漕ぐことが、詩を書くことだと読むことはできないだろうか。だからこそ、「鍵は常に心のなかにあるのだ」という一見陳腐な一行が、私たちの胸にズシリと響いてくるのではないか。そして、漕いでも漕いでもどこへも辿り着けないが、それだって紛れもなく、私たちが生きている姿には違いない、そのように生きるしかないという現実を引き受けることが、詩を書くことだと、この作品は訴えていると思うのだ。

 最終連で、キムは詩の朗読を始める。追い詰められた状況で何とか正気を保つ為に、キムが選択した行為が詩の朗読であったというのはいかにも示唆的である。その朗読を聴いて幹さんはこう思う。

きっとそうだ、俺だって
ここが環七か環八か環百なのかだって分からないんだから
水溜りのアメンボを前輪と後輪で踏み潰す
世界中そうだ
泣いているのだ。


 この時、幹さんは、自分もキムと同じ境遇なのだと知る。キムが詩の朗読をするように、幹さんも鍵のかかった自転車を漕いでいる。そしてキムが詩の朗読をするように、作者である馬野幹は『金(キム)』という詩を書いて、今まさに生きている。「世界中そうだ/泣いているのだ。」という最後の言葉は、前段の「きっとそうだ、/俺だって」を「きっとそうだ、/君だって」と読み替えても差し支えないことを示している。そして、わざわざ私がこんなことを書かなくても、多くの読者が読み替えているであろうことを私は確信しているし、この詩が驚くほど下品でありながら、驚くほど多くの読者を持つことができた理由が、そこにあると思うのだ。


 小林秀雄は、『様々なる意匠』の中で、批評についてこう書いている。

批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!

 最後に感嘆符を付けて言い切ってしまわなければ、小林秀雄も口にすることを躊躇われたのであろう、あまりにも曖昧で分かりにくい定義である。後世の文芸批評家にたびたび引用されては様々に解釈されてきた言葉であるが、「批評」の部分を「詩」に置き換えるとどうだろう。何かを何かに置き換えて読む、批評の常套手段ではあるが、知っての通り、詩の常套手段でもある。セオリーは常に踏んでみなければならない。

 「詩の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。詩とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」

 どうだろう、私にはとてもわかりやすい言葉に思える。そして『金(キム)』という作品はまさに、「己の夢を懐疑的に語る」という逆説を、身をもって提示しているように思うのだ。

 私は、「詩と“私”は別物」であるとか、「詩は作者自身の思想とは一致しない」という考え方が嫌いであるというか馬鹿馬鹿しいと思っている。さんざん自分の脳内や内面からなけなしの想像力を搾り出して書いておきながら、いざ作品になった暁には、「それは私ではない」と言いたがる、ずいぶん都合の良い話もあったものだ。しかし、多くの人がそういうことを言いたがるという事実にはやはり理由がある。「私」から切り離した詩を書きたいが、書けないからである。詩の中に自分の刻印を認めるのが恐ろしいのである。そこで、私たちは「イメージ」という便利な言葉を発明し、誰のものでもないが何かを感受させてくれるものを作り出そうと必死になる。しかし結局、イメージとは、「世界」と「私」が関係を取り結ぶ手段でしかないのだから、「私」の指紋がつくのは当たり前だし、逆に言えば、そうした私的なイメージでなければ、別の場所で同じように「世界」と「私」の関係を結ぼうとしている読者に、共有されることはない。だから、私たちは徹底的に「私」にこだわって詩を書いていかなければならない。「詩」が恥ずかしいほど「私」に似てしまうことを、引き受けていかなければならない。そして「批評」もまた同じである。


 最後に。ところで本当に、「詩人にとっては詩を創る事が希い」であろうか。『金(キム)』は、この問いかけに答えてはくれないが、私がこの問いかけの周辺を、これからも長い間、ウロウロと彷徨っていかなければならないことを、読むたびに教えてくれる作品である。
2007.01.07 Sunday ... comments(0) / trackbacks(0)
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