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2014.08.27 Wednesday ... - / -
#馬野幹 『金(キム)』を読む
■現代詩フォーラム第二回批評祭参加作品■馬野幹 『金(キム)』を読む  [2007年1月7日18時04分]

 昭和四年、雑誌『改造』の懸賞論文で第二席になった『様々なる意匠』の中で、小林秀雄は次のように書いている。

 文学の世界に詩人が棲み、小説家が棲んでいる様に、文芸批評家というものが棲んでいる。詩人にとっては詩を創る事が希いであり、小説家にとっては小説を創る事が希いである。では、文芸批評家にとっては文芸批評を書く事が希いであるか? 恐らくこの事実は多くの逆説を孕んでいる。

 文学の世界に、批評というジャンルが確固とした地位を築いていなかった当時、文芸批評家として身を立てようとしていた小林秀雄は、このような素朴な問いかけから、自らの批評活動の第一歩を踏み出した。今でこそ、文芸批評家を名乗る人物はゴロゴロいるし、私たちも、批評という言葉を普通に使っているが、批評に二義的な役割しか与えられていなかった当時の文壇で、それでも批評家として生きていくとはどういうことか、という切実な自問が小林秀雄にはあった。そして、「文芸批評家にとっては文芸批評を書く事が希いであるか?」という小林の、素朴ではあるがラディカルな問いかけは、私たちがしばしば議論する「批評とは何か」という難題として、現在まで生き延びている。
 
 話の方向を変えよう。ところで本当に、「詩人にとっては詩を創る事が希い」であろうか。恐らくこの問いかけも、多くの逆説を孕んでいる。
 現代詩フォーラムに投稿された作品の中でも、屈指の傑作だといっていい馬野幹の『金(キム)』という詩は、この問いかけそのものを読む者に痛烈に突きつけてくる。『金(キム)』は、その内容の下品さにもかかわらず、多くの読者を獲得している不思議な作品である。周知の通り、馬野幹は手馴れた書き手であるから、シモネタのレシピも充分に心得ているわけだが、そのような詩作の技術を超えたところで、読む者を感動させるこの作品の魅力は、一体どこにあるのか。

   ■馬野幹『金(キム)』http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62375

 作品に登場するキムという男は、空想ができない男である。

幹さんやばいっす、オレ犯罪犯しちゃいそうです」
『ちゃんと詳しく説明してミソ』
「ちんこがもうずっと起ってて、おさまらなくてヤバいっす」
『オナニーすれw』
「無理やりするのは、女の子がかわいそうで出来ないっす。。」
 

おかしな事を言う男である。空想であれば女の子に被害はないはずなのに、なぜ「かわいそう」なのか疑問であるし、そもそもこんな考え方をするキムは、生まれてこのかた一度も空想によるオナニーをしたことがないのだろうか。いや、そんなことはあるまい、男であれば、とりあえず、プレイボーイやsabra等(まあ、何でもいいのだが無難なところで)で空想をまじえたオナニーをするのが普通であるし、おそらくキムもオナニー経験者である。では、なぜ今になって、できなくなったのか。これについては、作品の冒頭で「火曜日に詩を教えているキムからskymailがきた」と、さりげなくではあるが、わざわざ、キムが詩を学んでいる男であるという設定を作者が明かしている点に注目しよう。とはいっても、詩を学んでいるのであれば、なおさら空想はお手のものではないか、と一般的には考えられる。が、実はそうでもない。私たちのように、実際に詩を書いている人間には分かるはずだが、空想といっても、それは単なる絵空事ではない。どんな出鱈目を書いたとしても、そこには疑いようもなく自分の刻印が押されていることを私たちは知っている。いかに空想力が豊かな人間であろうと、自分の守備範囲を超える空想はできないし、空想の限界は書き手の認識の限界と必ず一致している。キムが空想でオナニーできないのは、空想自体ができないのではなく、それを絵空事で済ますことができないからだと考えることができる。空想の中に自分を発見してしまうから、空想がリアルに転化してしまうのだ。このようなキムに対して、詩を教えている「幹さん」はこう言い放つ。

『お前はアホかっ!
空想と現実を一緒にすんな!
空想では何してもいいんだよ!
いきなり付き合ってたり、家が隣で幼馴染とか都合のいいシチュエーション想定したり
好きな格好に1秒で着替えさせたり、未成年とやったり、十字架に吊るしたり売買したり
何してもいいんだよ!
空想なんだから!
お前が黙っときゃ誰も分からんから。


 空想の例としては、下品かつ反倫理的、反社会的ではあるが、理屈としては至極まっとうな事を幹さんは言っている。しかし、空想がリアルに転化してしまうキムには、「何してもいいんだよ! 空想なんだから!」という理屈は通用しない。そして、キムの熱を持った下半身は、キムの体を欲望のままに引き摺っていってしまう。

幹さん、
オレ もう いま
妹の部屋のノブに手をかけてす
たすけてくた゛さい


 キムは、必死で倫理的な場所に踏み止まろうとしている。このようなキムの姿は、心理学で分裂病の発生原因ともされる、ダブルバインド(二重拘束)状態に似ているのかもしれない。一方では空想を自ら禁じてオナニーの道を断ち、また一方では妹を犯してはいけないという禁忌の前で実力行使もしない。キムは手枷足枷をはめられて、欲望を満たす手段を見つけることができず、幹さんに助けを求めるしかない。「妹の部屋のノブに手をかけてす」と言うキムに対して幹さんはこう叫ぶ。

だらずかいっ!
それを空想ですっだがな!
逆だがな逆!
何でお前は常に真逆なものを内包しとっだい!
お前は詩か!
詩そのものかっ!


この部分は、この作品の核心になると思うが、キムと詩が、共に「真逆なものを内包」しているとはどういうことか? 確かにキムは、空想の世界で済ますべきことを、逆に、現実の世界で行おうとしてしまっている男だ。詩はどうか。これは明快に語ることは難しいが、ひとまず、こんな解釈をしてみる。詩に書いたことは空想の領域であるかもしれないが、書いてしまったという事実がある、<書いている=生きている>であるような時間があったという事実は、まぎれもなく現実であると。私たちはよく、「書くことが生きることだ」という大袈裟ではあるが、自分ではそれほど誇張とも感じられない気持ちになりつつ、詩を書いている時があるだろう。そのようなとき、「なぜ君は詩を書くのか?」という質問は、「なぜ君は生きているのか?」という質問と全く同じ響きを持って聴こえるはずである。しかし、このような詩の本質論めいたことを幹さんが言い当てていることは、この作品にあって、それほど重要なことではない。たいして目新しい発見でもないからである。では、真に重要なことは何か? それは、「お前は詩か! 詩そのものかっ!」と叫ぶことを契機として、幹さんのキムに対する態度が一変しているという点にある。
 ここで確認しておきたいのは、この詩の構成として、ここまでのキムと幹さんの会話は、携帯電話のメールによって交わされているという点である。これもやはり「火曜日に詩を教えているキムからskymailがきた」という一文によって明らかにされている。二人のこれまでの生々しい会話も、携帯の小さな液晶画面上での出来事だったのだ。しかし、ここから先、幹さんは行動に出ようとする。

俺はオリュンポスを破壊して1つ知ったことがある
靴下のままアパートを飛び出してチャリキにまたがると
親と一緒に住んでいるという足立区のキムの実家を目指した
チャリキの鍵はつけたままだったがペダルはぐんぐんと回転した
鍵は常に心のなかにあるのだ
キムがコトを起こさぬように俺は携帯でしゃべり続けた
『ええかキム!
俺がしゃぶったるけぇ!
そこでそのまま待機すっだーぞ!
間違ってもそのドアのノブを廻すな!
俺は男だけ、どがんしたら気持ちようなるかよう知っとるけぇ!
大丈夫だけ、俺に身を任せたらえーけ!
俺がすっごい気持ちようしたるけぇな!』


 驚くべき態度の変わりようである。それまではウザイ奴だと思っていたキムに対して、「俺がしゃぶったるけぇ!」とまで言い出すのだから、ただ事ではない。明らかに「お前は詩か! 詩そのものかっ!」という「叫び」が引き金になっていることが分かる。そして、この「叫び」がキムに向かって言ったものであると同時に、幹さん自身の「気付き」であったことが分かる。<キム=詩>という認識をしたことによって、何かが起きたのだ。一体、何が起きたのか?

 しかし、実際は、何も起こらなかった。「チャリキの鍵はつけたままだった」のだから、幹さんはどこへも行けるはずはないのだ。最終連で「ここが環七か環八か環百なのかだって分からないんだから」という記述もあるが、実際に自転車を走らせているわけではないから、居場所が分かるはずもなく、「環百」という現実にありもしない名称を出してくるのは、場所なんかどうでもよくて、そもそも足立区のキムの実家を目指しているわけではないことを示している。「靴下のままアパートを飛び出して」と書いておきながら、飛び出した先は空想の世界だったのだ。幹さんは依然としてアパートの部屋の中にいるはずである。ただ、空想のペダルが「ぐんぐんと回転」しているだけなのだ。しかし、この真剣さはどうだろう。空想の中で、キムを救うために、ここまで必死になれるということ、この逆説を生きることが、すなわち詩だと、読むことはできないだろうか。鍵のかかった自転車を漕ぐことが、詩を書くことだと読むことはできないだろうか。だからこそ、「鍵は常に心のなかにあるのだ」という一見陳腐な一行が、私たちの胸にズシリと響いてくるのではないか。そして、漕いでも漕いでもどこへも辿り着けないが、それだって紛れもなく、私たちが生きている姿には違いない、そのように生きるしかないという現実を引き受けることが、詩を書くことだと、この作品は訴えていると思うのだ。

 最終連で、キムは詩の朗読を始める。追い詰められた状況で何とか正気を保つ為に、キムが選択した行為が詩の朗読であったというのはいかにも示唆的である。その朗読を聴いて幹さんはこう思う。

きっとそうだ、俺だって
ここが環七か環八か環百なのかだって分からないんだから
水溜りのアメンボを前輪と後輪で踏み潰す
世界中そうだ
泣いているのだ。


 この時、幹さんは、自分もキムと同じ境遇なのだと知る。キムが詩の朗読をするように、幹さんも鍵のかかった自転車を漕いでいる。そしてキムが詩の朗読をするように、作者である馬野幹は『金(キム)』という詩を書いて、今まさに生きている。「世界中そうだ/泣いているのだ。」という最後の言葉は、前段の「きっとそうだ、/俺だって」を「きっとそうだ、/君だって」と読み替えても差し支えないことを示している。そして、わざわざ私がこんなことを書かなくても、多くの読者が読み替えているであろうことを私は確信しているし、この詩が驚くほど下品でありながら、驚くほど多くの読者を持つことができた理由が、そこにあると思うのだ。


 小林秀雄は、『様々なる意匠』の中で、批評についてこう書いている。

批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!

 最後に感嘆符を付けて言い切ってしまわなければ、小林秀雄も口にすることを躊躇われたのであろう、あまりにも曖昧で分かりにくい定義である。後世の文芸批評家にたびたび引用されては様々に解釈されてきた言葉であるが、「批評」の部分を「詩」に置き換えるとどうだろう。何かを何かに置き換えて読む、批評の常套手段ではあるが、知っての通り、詩の常套手段でもある。セオリーは常に踏んでみなければならない。

 「詩の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。詩とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」

 どうだろう、私にはとてもわかりやすい言葉に思える。そして『金(キム)』という作品はまさに、「己の夢を懐疑的に語る」という逆説を、身をもって提示しているように思うのだ。

 私は、「詩と“私”は別物」であるとか、「詩は作者自身の思想とは一致しない」という考え方が嫌いであるというか馬鹿馬鹿しいと思っている。さんざん自分の脳内や内面からなけなしの想像力を搾り出して書いておきながら、いざ作品になった暁には、「それは私ではない」と言いたがる、ずいぶん都合の良い話もあったものだ。しかし、多くの人がそういうことを言いたがるという事実にはやはり理由がある。「私」から切り離した詩を書きたいが、書けないからである。詩の中に自分の刻印を認めるのが恐ろしいのである。そこで、私たちは「イメージ」という便利な言葉を発明し、誰のものでもないが何かを感受させてくれるものを作り出そうと必死になる。しかし結局、イメージとは、「世界」と「私」が関係を取り結ぶ手段でしかないのだから、「私」の指紋がつくのは当たり前だし、逆に言えば、そうした私的なイメージでなければ、別の場所で同じように「世界」と「私」の関係を結ぼうとしている読者に、共有されることはない。だから、私たちは徹底的に「私」にこだわって詩を書いていかなければならない。「詩」が恥ずかしいほど「私」に似てしまうことを、引き受けていかなければならない。そして「批評」もまた同じである。


 最後に。ところで本当に、「詩人にとっては詩を創る事が希い」であろうか。『金(キム)』は、この問いかけに答えてはくれないが、私がこの問いかけの周辺を、これからも長い間、ウロウロと彷徨っていかなければならないことを、読むたびに教えてくれる作品である。
2007.01.07 Sunday ... comments(0) / trackbacks(0)
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